今のイラストに対するポテンシャルは2.3年前当時の時とはかけ離れた場所に心があることを改めて痛感した。
今のわたしの現状は、絵が描けないのではなく絵を描きたいと思えないのかもしれないというところまで気持ちを解き明かす事が出来た。
ここまでたどり着いたのは画伯氏に相談してからだ。「多分今のおねむは自分の気持ちを具現化して自分を知るために日記を描いていて、そこに自分が言葉では伝えにくかったり伝えたい事を絵で補足として描いたりしてるのが最近なわけでさ、絵を描くことだけに基軸をおけてないわけだ」
険しい面持ちで不安なわたしの横で言葉を選びながら続けた
「絵が描けないって思うんだったらそれでいいと思うし何を描けばいいかわからないならすべき選択から外すべきだよ、日記や4コマで絵をかけて表現出来ているなら、そのジャンルの道に進んでまずは動くべきだよ。考えたりする暇ないよ」と一喝された。
そのあとしばらく黙ってしまい自分の気持ちの靄を必死にかき分けて考えこんでいた。
わたしはずっと絵が描けないことに罪悪感や情けなさを感じ苦しかった。描きたいものもわからず、自分の為か誰の為かもわからず曖昧なのも辛かった。
描けない事でイラストレーターである自分を失いたくないと思った。それは唯一得意で仕事にも出来た好きな事だったから、スランプが凄く苦痛で“絵を描けないことでおこる"事実を受け入れたくなかったのだと思う。
それは絵を描かないという選択、一度は心が病み、少し描くことから離れ、気持ちが復活した時に活動を再開しようと思っていた。それもそんな甘くはないと言うことを痛感したし認めたくなかった。
今のスタイルはどちらかというとまさに画伯氏が言ったように、自分の気持ちを具現化したり、自分の為に絵を描いている。
移ろう日々のこと、自分の感情をありのまま書き、そこに絵を描き表現する事で自分が自分でいて良いような、文を基軸とした絵を描く事が今の自分には合っているというのも気づけた。
イラストレーターとして絵を描くとなると、自分の為だけとはいかないのだ。仕事にしていくならまさにこの自分軸の範囲を広すぎず狭すぎずというバランスが重要になってくる。
けれど、今のわたしにはそんな器用な真似は出来ないなと思うしイラストレーターとしての変なプライドを捨てよう。
イラストレーターは辞めない、けど今わたしは文で自分の感情を表現する事が好きだし、絵もその時を思い出しながら描いたり自分の為に描いていきながら文と絵が活きる活動をしていきたいと、気持ちがかたまった日だった。
何をしていくか、何がしたいか悩んでいたけれど、まずはエッセイの公募をだしたり日記本を作りたいなと思う。そこで自分の絵が活きるよう描けたらいいかなと今は思うようにしている。
動こう。進まなきゃ。